鹿児島の歴史雑学|桜島・西郷隆盛だけじゃない地元で話せる15の豆知識

転勤で鹿児島に来たけど、地元の人との会話で何を話せばいいか困っていませんか?。

桜島が見えることや西郷隆盛の銅像があることは知っていても、それ以上の話題がないと会話が広がりませんよね。

実は鹿児島には、地元の人との会話がぐっと盛り上がる歴史雑学がたくさんあるんです。

この記事では、明日からすぐに使える鹿児島の歴史にまつわる豆知識を15個厳選してご紹介します。

幕末の偉人たちの意外なエピソードから、知られざる世界遺産の秘密、地名の由来まで、地元民でも「え、そうだったの?」と驚くネタが満載です。

読み終わる頃には、鹿児島の話題に自信を持って参加できるようになっているはずです。

鹿児島が生んだ偉人たちの意外な歴史雑学

鹿児島は幕末から明治にかけて、日本の歴史を動かした人物を数多く輩出しています。

ここでは、西郷隆盛や大久保利通など有名な偉人たちの、教科書には載っていない意外なエピソードをご紹介します。

西郷隆盛の銅像は本人に似ていない説

鹿児島市内にそびえ立つ高さ8メートルの西郷隆盛銅像は、鹿児島観光のシンボルとして有名です。

しかし実はこの銅像、西郷本人に似ていないという説があるんです。

西郷隆盛は写真嫌いで知られ、確実に本人と分かる写真が一枚も残っていません。

銅像制作時、彫刻家は親族や知人の証言をもとに姿を再現したのですが、除幕式で妻の糸子が「うちの主人はこんな顔ではない」と言ったという逸話が残っています。

ちなみにこの銅像を制作したのは、渋谷のハチ公像と同じ彫刻家の安藤照氏です。

地元の人に「西郷さんの銅像、実は本人に似てないらしいですね」と振ってみると、会話が盛り上がるかもしれません。

加治屋町という小さな町から日本を変えた偉人が続々

鹿児島中央駅から徒歩約5分の場所にある加治屋町は、日本史上最も偉人を輩出した町として知られています。

わずか数百メートル四方のこの地域から、西郷隆盛、大久保利通、東郷平八郎、大山巌、西郷従道など、明治維新から日露戦争期の中心人物が次々と生まれたのです。

作家の司馬遼太郎は「明治維新から日露戦争までを一町内でやったようなもの」と評しました。

なぜこんなに偉人が集中したのか、その秘密は薩摩藩独自の教育制度「郷中教育」にあります。

年長者が年少者を教える地域ぐるみの教育システムが、この小さな町に優秀な人材を育てる土壌を作り出していたんです。

現在の加治屋町は住宅街や公園になっていますが、偉人たちの生誕地を示す石碑や案内板が各所に設置されており、散策するだけでも歴史を感じられます。

大久保利通は五代友厚より今は知名度で負けている?

明治維新の三傑の一人である大久保利通は、西郷隆盛と並ぶ薩摩藩出身の重要人物でした。

しかし近年、朝の連続テレビ小説の影響で、実業家の五代友厚の人気が急上昇しています。

鹿児島中央駅周辺では、五代友厚の銅像が女性を中心に人気の写真スポットになっているほどです。

大久保利通は内務卿として明治政府の中枢を担い、日本の近代化に大きく貢献した人物ですが、ドラマの影響力は歴史上の重要度とは別の人気を生み出しています。

ちなみに五代友厚は、薩英戦争後にイギリスとの交渉役を務め、大阪の経済発展にも尽力した人物です。

地元の人と偉人の話題になったら「五代友厚さんの銅像、見ました」と切り出すと、意外と喜ばれるかもしれません。

私学校跡の石垣に残る生々しい銃弾跡

現在の鹿児島医療センターがある場所は、かつて西郷隆盛が創設した私学校の本拠地でした。

明治10年(1877年)の西南戦争の発端となったこの場所には、今でも当時の石垣が一部残されています。

そしてその石垣には、激しい銃撃戦の痕跡である無数の銃弾跡が刻まれているんです。

実際に現地を訪れて石垣に触れると、歴史の教科書で読んだ西南戦争が、まさにこの場所で起きた生々しい出来事だったことを実感できます。

この銃弾跡は鹿児島県の史跡に指定されており、幕末から明治への激動の時代を今に伝える貴重な遺構となっています。

街中にさりげなく残されているこうした史跡を知っていると、地元の人からも「よく知ってますね」と一目置かれるかもしれません。

知らなかった!桜島と鹿児島の自然にまつわる歴史

桜島は鹿児島のシンボルとして誰もが知っていますが、その歴史や自然には意外と知られていない事実がたくさんあります。

ここでは桜島をはじめとする鹿児島の自然に関する驚きの雑学をお届けします。

桜島は実は「島」じゃなくなった

現在の桜島は大隅半島と陸続きになっているため、厳密には「島」ではありません。

もともとは文字通り錦江湾に浮かぶ島だったのですが、大正3年(1914年)の大噴火によって溶岩が海峡を埋め、大隅半島とつながってしまったのです。

この大正大噴火は20世紀の日本最大規模の噴火で、約30億トンもの溶岩が流出しました。

噴火前は海峡の幅が最も狭い場所でも400メートルほどありましたが、わずか一晩で溶岩によって埋め尽くされたといいます。

それ以来、桜島は「陸続きの活火山」として現在に至るまで活動を続けています。

地元の人との会話で「桜島って今は島じゃないんですよね」と話題にすれば、歴史好きな人なら詳しく教えてくれるかもしれません。

出典:桜島について|鹿児島市

錦江湾は実は巨大なカルデラ湖だった

鹿児島市と桜島を隔てる錦江湾は、美しい海として知られていますが、実はカルデラ湖が海とつながったものなんです。

約2万9千年前の巨大噴火によって形成された姶良カルデラの一部が、現在の錦江湾になっています。

このカルデラを作った噴火は、桜島の大正大噴火の100倍以上の規模だったと推定されており、九州南部全体に火山灰が降り注ぎました。

錦江湾の最深部は約200メートルもあり、湾内には今でも海底温泉が湧き出ている場所があります。

普段何気なく見ている錦江湾が、実は途方もない自然の営みの産物だと知ると、景色の見え方も変わってくるかもしれません。

鹿児島は世界遺産が2つもある県

鹿児島県には、自然遺産と文化遺産の両方があることをご存知でしょうか。

まず平成5年(1993年)に日本で最初の世界自然遺産として登録されたのが屋久島です。

樹齢数千年とも言われる縄文杉をはじめ、島の面積の約2割が世界遺産に指定されています。

そして平成27年(2015年)には、仙巌園を含む「明治日本の産業革命遺産」が世界文化遺産として登録されました。

仙巌園は万治元年(1658年)に島津家が造営した大名庭園で、桜島を築山に、錦江湾を池に見立てた借景技法が見事です。

さらに令和3年(2021年)には奄美大島が世界自然遺産に追加登録され、鹿児島県は国内でも珍しい複数の世界遺産を持つ県となっています。

遺産名種別登録年特徴
屋久島自然遺産1993年縄文杉、樹齢数千年の屋久杉
明治日本の産業革命遺産文化遺産2015年仙巌園、尚古集成館など
奄美大島自然遺産2021年東洋のガラパゴス、固有種の宝庫

池田湖には幻の怪獣「イッシー」がいる?

薩摩半島最大の湖である池田湖は、周囲15キロメートル、最大水深233メートルの九州最大のカルデラ湖です。

約6,400年前の火山活動によって形成されたこの湖には、1970年代から目撃情報が相次ぐ謎の生物「イッシー」の伝説があります。

ネス湖のネッシーにちなんで名付けられたイッシーは、体長10メートル以上の巨大生物とされ、地元では観光資源としても親しまれています。

実際には池田湖には体長2メートルにもなる大うなぎが生息しており、これがイッシーの正体ではないかとも言われています。

池田湖周辺からは美しい円錐形の開聞岳が望め、「薩摩富士」と呼ばれるその姿は鹿児島を代表する景観の一つです。

地元の人に「イッシー見たことありますか?」と聞いてみると、笑いながらも池田湖の魅力を教えてくれるかもしれません。

薩摩藩の知られざる歴史エピソード

薩摩藩は江戸時代を通じて独自の発展を遂げ、明治維新の原動力となりました。

ここでは教科書には詳しく書かれていない、薩摩藩の興味深い歴史をご紹介します。

薩英戦争で敵だったイギリスと仲良くなった不思議

文久3年(1863年)、薩摩藩とイギリスの間で薩英戦争という武力衝突が起こりました。

きっかけは前年に起きた生麦事件で、薩摩藩士がイギリス人を殺傷した事件への報復としてイギリス艦隊が鹿児島を砲撃したのです。

鹿児島市内の天保山、新波止場、祇園之洲には当時の砲台跡が今も残されており、特に祇園之洲では激しい砲撃戦が繰り広げられました。

現在は石橋記念公園として整備されているこの場所で、薩摩藩とイギリスは互いに大きな損害を出しながら戦いました。

ところが戦後、両者は互いの実力を認め合い、むしろ友好関係を築いていくことになります。

イギリスから最新の技術や知識を学んだ薩摩藩は、後の倒幕運動や明治維新において大きな力を発揮することになるのです。

敵として戦った相手から学ぶという柔軟な姿勢が、薩摩藩の強さの秘密だったのかもしれません。

島津斉彬は日本初の工業化を目指した先見の明を持つ殿様

幕末の薩摩藩主・島津斉彬は、日本が近代国家になるためには工業化が必要だと考えた先進的な人物でした。

嘉永4年(1851年)から安政5年(1858年)の在任期間中、斉彬は集成館事業と呼ばれる一連の近代化プロジェクトを推進します。

反射炉を建設して大砲を鋳造し、ガラス工場や紡績工場を作り、写真技術まで導入しました。

仙巌園に隣接する尚古集成館には、当時の産業遺産や資料が展示されており、島津家の先進的な取り組みを知ることができます。

斉彬の突然の死後も、その遺志は弟の島津久光らに引き継がれ、薩摩藩の近代化は継続されました。

もし斉彬がもっと長生きしていたら、日本の歴史はどう変わっていたのか想像するのも楽しいかもしれません。

出典:仙巌園公式サイト

薩摩の郷中教育が強い武士を育てた

薩摩藩独自の教育制度「郷中教育」は、地域の年長者が年少者を教える独特のシステムでした。

6歳から25歳くらいまでの武士の子弟を年齢別グループに分け、年長者が年少者に武術や学問、礼儀作法を教えていきます。

この制度の特徴は、藩が上から押し付けるのではなく、地域コミュニティの中で自主的に学び合う点にありました。

加治屋町のような下級武士の居住地域でも、この教育制度を通じて優秀な人材が育っていったのです。

西郷隆盛も大久保利通も、この郷中教育で育った人物です。

現代の教育にも通じる「先輩が後輩を教える」という仕組みが、幕末の激動期を生き抜く人材を数多く輩出する土壌になっていました。

地域ぐるみで子どもを育てるという考え方は、今でも鹿児島の地域性として残っているかもしれません。

城山は西郷隆盛の最期の地で今は静かな公園

標高107メートルの城山は、明治10年(1877年)の西南戦争において、西郷隆盛が最後の5日間を過ごした場所です。

政府軍に追い詰められた西郷は、城山の洞窟に本営を置き、最後まで戦いました。

現在は薩軍本営跡から西郷隆盛洞窟、そして終焉の地へと続く散策路が整備されており、静かに歴史を感じられる場所になっています。

西郷は最期に「晋どん、もうここらでよか」と側近に言って自刃したと伝えられています。

城山は天然記念物に指定された常緑広葉樹の森に覆われており、展望台からは鹿児島市街と桜島を一望できる絶景スポットでもあります。

観光地としても人気ですが、静かで物悲しさを感じさせる雰囲気があり、歴史の重みを感じられる場所です。

鹿児島の地名や文化の由来になった歴史

鹿児島の地名や文化には、それぞれ興味深い歴史的背景があります。

日常的に使われている言葉や場所にも、実は深い意味が隠されているんです。

「鹿児島」という地名の由来には諸説ある

鹿児島という地名の由来については、実はいくつかの説があります。

最も有名なのは、かつてこの地に桜島の噴火によって多くの鹿が逃げてきて、島のように見えたという説です。

別の説では、「かご」という言葉が「崖」を意味する古語で、「かごしま」は「崖のある島」という意味だったとも言われています。

また火山地帯特有の「かごり」(籠り、水が湧き出る場所)という地形から来ているという説もあります。

いずれにしても、火山や地形と深く関係した名前であることは間違いなさそうです。

地元の年配の方に地名の由来を尋ねると、それぞれ持論があって面白いかもしれません。

天文館という地名は江戸時代の天文観測所から

鹿児島市の中心繁華街である天文館は、南九州最大級の商業地域として知られています。

この「天文館」という珍しい地名は、江戸時代に薩摩藩が設置した天文観測施設「明時館」に由来します。

島津重豪が天文学や暦学の研究のために建てた施設があったこの場所を、人々が「天文館」と呼ぶようになったのです。

現在では黒豚料理やさつま揚げなど鹿児島グルメを楽しめる飲食店が立ち並び、観光客にも地元の人にも親しまれています。

科学技術に熱心だった薩摩藩の歴史が、今も地名として残っているというのは興味深いですね。

天文館で食事をするときに「ここ、元々は天文台があった場所なんですよね」と話せば、ちょっとした豆知識として使えるはずです。

知覧特攻平和会館が伝える戦争の記憶

南九州市知覧町にある知覧特攻平和会館は、太平洋戦争末期の特攻隊員の遺品や資料を展示する施設です。

知覧は陸軍の特攻基地があった場所で、多くの若い隊員がここから沖縄方面へ出撃していきました。

館内には特攻隊員が家族に宛てた遺書や写真、遺品が展示されており、戦争の悲惨さと平和の尊さを静かに訴えています。

昭和の歴史を語る上で欠かせない場所であり、修学旅行などで訪れる学生も多い施設です。

戦後80年以上が経過した今も、この場所では戦争の記憶を次世代に伝える取り組みが続けられています。

歴史を学ぶという意味で、一度は訪れておきたい場所かもしれません。

出典:知覧特攻平和会館公式サイト

種子島は鉄砲伝来の地として日本史を変えた

種子島は鹿児島本土の南約40キロメートルに位置する離島です。

天文12年(1543年)、ポルトガル人を乗せた中国船が種子島に漂着し、日本に初めて鉄砲が伝わりました。

この出来事は日本の戦国時代の戦い方を根本から変え、歴史の流れに大きな影響を与えることになります。

島主の種子島時尭は高額な代金を払って鉄砲2丁を購入し、家臣に製造技術を学ばせました。

わずか1年後には国産の鉄砲が完成し、その技術は全国に広まっていきます。

現在の種子島は、種子島宇宙センターがあることでも知られており、「鉄砲からロケットへ」という歴史のロマンを感じさせる島です。

鹿児島の離島というと屋久島や奄美大島が有名ですが、種子島の歴史的重要性も忘れてはいけません。

まとめ

鹿児島には桜島や西郷隆盛以外にも、地元で話せる歴史雑学がたくさんあります。

西郷隆盛の銅像が本人に似ていない説、加治屋町という小さな町から多数の偉人が誕生した理由、桜島が大正時代の噴火で島ではなくなったこと、錦江湾が実は巨大なカルデラ湖だったこと、薩英戦争後に敵同士だった薩摩藩とイギリスが友好関係を築いたことなど、意外な事実ばかりです。

これらの豆知識を知っていれば、転勤で来たばかりの人も地元の人との会話に困ることはなくなるでしょう。

明日からさっそく、職場や地域の集まりでこれらの話題を振ってみてください。

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